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しんのブログ

頭の整理的な役割を果たしている

2011年3月11日 埼玉で震災したあの日の記憶と大切な人に伝えるべき大切なこと

挑戦/体験
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2011年3月11日

ふと震災について思い出すことがある。君の名は。の彗星のシーンでも震災を思い出した。今日はあの日の僕の一日を振り返ろうと思う。

この記事の結論は明日何が起きるかわからないから、大切な人に伝えなきゃいけないことは日々伝えるべきであるということだ。

あの日

埼玉県の中学校にいつも通り、通っていた。あの日は晴れていた。中学二年生の三学期だった。3月末ということもあってあと10日くらい学校に行けば春休みだった。

震災が起きた前後しかよく覚えていないので断片的に話す。

震災が起きた瞬間、学校の帰る前の掃除の時間で掃除をしていた。あまりにも大きな地震で何が起きたかわからなかった。埼玉県だったから震度は5強だった。

友達がやばい!外に出ようと言っていたので3人くらいで走って教室からトイレに移動した。

トイレでまた地震を食らった。この地震をよく覚えている。もう本当に足を踏ん張って壁にしがみついていないと身体が倒れてしまうくらい揺れた。

プールがヤバイと皆んな話していたので揺れが収まったあと、すぐに外に出るとプールが大きな波を打ってプールの柵を乗り越えて、普通ならありえない位置まで水が溢れ出していた。

それから学校全体で教室に戻るアナウンスがされ、教室に戻った。
教室でもたびたび地震は発生した。若い新任教師の担任が焦っていたのを見た。

工作の授業で作った「手作りラジオ」を使って情報を収集した。まさか1年間かけて半田ごてを何度も焦がしながら作ったこの、手作りラジオが役に立つ日が来るとは思わなかった。

スマホはなかったのかと言うと、もともと中学校は全面スマホ、ケータイ禁止だし、当時はiPhoneで言うとiPhone4とかでスマホを持っている人自体少なかった。その日緊急地震速報を受信してしまった生徒たちのケータイは鳴りに鳴っていたが、緊急過ぎたのでその日は教師から許されていた感じがする。

ラジオから震源が流れた。しかし教室にテレビがないので、その瞬間にあの大きな津波が人を飲み込んでいるのを知ったのは、そのあと家に帰ってからとなった。

校庭に人が集められ、親に引き取られて下校することになった。僕は家から自転車で15分くらいだったのでいつも帰っている友達とそのまま自転車で下校した。

信号が止まっていたのを印象的に覚えている。
帰り道に押しボタン式信号が1つだけあるのだけど、その押しボタン式信号は市が全体的に停電していたのでもちろん切れていた。

それでも車は空気を読んで止まったり止まらなかったりを繰り返していて事故も全くなかった。

家に帰ると、家の灯篭が崩れていて、その灯篭がブロック塀を突き破って道路に出ていたりしていてビックリした。

咄嗟に自分のガラケーでその当時好きだった女の子に「いなくならないでね」と一文だけメールをしたのを覚えている。あの時ほんとにもう全部ダメだと思った。

市が全体的に停電していたのでその日は生まれて初めて電気のない夜を過ごした。
あの日はすごく寒かった。石油ストーブの偉大さを知った。電気はもう1週間くらい繋がらないと思ってしまった。

何か食べないと落ち着かない状態で、家にいたお姉ちゃんと一緒にカップラーメンを食べた。家の中は本棚の本が崩れていたり壁にかけていたパズルが落ちていたりしていただけで大きな被害はなかった。

僕の部屋はというと、机の引き出しが開いていただけであった。引き出しはもちろん手で引かないと、開かないわけだが震災の揺れだけで開いてしまった感じでなんだか気持ちが悪かった。

夜8時くらいに隣町の友達んちに泊まる兄を除いて家族が全員揃った。全員無事だった。

それにしても電気がないというのはなんと不便なことか、インターネットも出来ないということだ。震災の一か月前くらいに始めていたツイッターで現状をつぶやきたかったが電気がなかったので家の無線LANから僕のiPod touchは電波を受信できなかった。

ガラケーやDSの充電が物凄く貴重に感じた。モバイルバッテリーは家に1つしか無かった。スマホが主流ではなかったのでモバイルバッテリーも重要視はされていなかった。

市の電気が通ったのは3月12日のAM2:00くらいだった。あとから知ったのだが、隣町の電気は何事もなくずっと通っていたらしい。

どうやら僕の住んでいる市だけ停電していたらしかった。電気があればあれほどの大きな不安は押し寄せなかっただろうなと思う。

電気が通ったあたりからの記憶は覚えていない。だけど震災発生からその深夜2時までの記憶はまだ覚えている。それくらい印象的だった。電気が通らなかったこともあり、津波や原発を知ったのは3月12日の朝になった。

大したことないただの大きすぎる地震だと思っていたが、震源地はほんとうに僕の想像を遥かに超え、漫画みたいな映像が流れていた。でも中学二年生の頃の自分はただテレビを眺めることしかできなかった。好きだった女の子からはお昼ぐらいに「大丈夫だよ。そっちは大丈夫?」とメールが来た。

今思うこと

僕の周りには亡くなった人とかがいないので、僕はとても救われた方だ。でもあの日初めて電気がない世界を10時間だけ体験して、ほんとうに備蓄品とかは大切だと思った。この話はあまり人には話しづらい。人によっては身近な人を亡くしてしまったりしているからだ。

結局僕が何が言いたかったのかと言うと、明日何が起きるかわからないから、大切な人に伝えなきゃいけないことは日々伝えるべきであるということだ。

と、わかってはいるものの、恥ずかしさだったり、そんなの滅多に起こらないから大丈夫とか思ってたりして1日1日を過ごしてしまう。失ってから気づくのでは遅いとはわかってはいるけれど、それ以上に変なプライドが大切なことの邪魔をしている。

たたこれを読んで誰か1人でも大切な人に大切な伝えなくてはいけないことを伝えられたらこの記事は100点だ。

この記事を書くきっかけとなったもの

ui0723.hatenablog.com

 

小説 君の名は。 (角川文庫)

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